この世の仕組みと真実

神人さんの日記を過去にさかのぼり投稿していきます

神人靈媒日記

2015/6/4号

日々良くも悪くも色々な靈存在と対話させて頂き学ばせて頂くのですが、その中でも時折、靈団に対してお話する機会もございます。
直接多くの数で来られると靈力的に非常に強い力・威圧感を感じたり致しますので畏まってしまいがちですが、かつてのシャーマンは、靈団も神として括り関わっていた方々が多かったように感じられます。
しかし、靈団というのは靈人の集合体ですから、神ではないのです。靈団も人間と同じ神に生かされている存在に過ぎません。神の目から見れば、肉体人も靈人もみな我が子であり、どちらが上か下かは無いに等しいのです。故に生命体全てを存在させている存在が本来は神(現次元的な顕れでは宇宙・銀河・星・自然界のエネルギー・森羅万象・仕組み)であるのです。一部の者たちが人間界や靈界とを上下優劣を付け肉体人と靈人を差別化致したに過ぎません。

キリスト教イスラム教は、人は生まれ変わることはなく、死んでから天国に行く為に修行なさいという間違った洗脳をし続けて来ておりますが、日本の仏教界の根本的な間違いは、靈性が高くなれば肉体人に生まれ変わる必要性が無くなると説いていることです。それは全くの間違いであり、生命の正しき仕組みを理解出来ていない、洗脳されている靈・靈団・人が非常に多い状態なのです。
肉体人を靈性低き存在として見下げてくる靈人が多いということは、過去の時代において正しき指導を受けていない人々があまりにも多く存在しているということであり、死後再び生まれ変わり学ぶことを恐れたり拒み続け、過去の仏教靈団の教えに執着しながら靈界に留まっているに過ぎないということなのです。

そのことをこれまで再三、色々な靈団・靈人・人々に伝えさせて頂いても来ました。奢ることなく恐れることなく、何度でも生まれ変わり肉体人として有難く学ばせて頂きなさいと。おおよその方々は、僕の言葉に対して嫌悪感を抱き嫌がらせ行為をし続けて参りました。
ところが、先日予期せぬとても面白いことがございました。
湯船に浸かりひとり疲れを癒している時、とある靈人が声をかけて来られたのです。

靈人「あなたが言っていた通りであった。」
神人「…。どういったことでしょうか?」
靈人「私はかつて真の教えを知りたいと思い、宋に渡り学び、更にインドにも行きたいと願い出たが結局行くことが出来ず無念な生を過ごしました。」

神人「あなたは靈人ですから今ならばインドにでも過去の時代にでも行って真を観ること知ることが出来ますよね。」
靈人「はい。以前、あなたがそのように我々に言っていたことを期に、過去に行き釈迦の教えに出逢い真に知りたかったことを知ることが出来ました。そして、あなたが言っていたように、真の教えは大きく違っておりました。この国での仏教の教えは間違ったまま広められてしまったのです。」
神人「あなたは仏教界に居られた方なのですね。現在のこの国の仏教界を御存じでしょうか?何もかもが許されており、修業とは形ばかりの所、内容が多くなっているということを。感謝するならば殺生を認め、肉魚を食べても良し、酒を飲んでも良し、色欲も好きにして良し、物欲も金欲も其々にまかり通っており、真の仏教の教えに生きて居られる方々が極めて少ない状態です。何をしても手を合わせれば許されるというのが現在のこの国の仏教界です。」
靈人「なんと…!?それが本当であるならば、許されん!」
神人「ところで、あなたは何方ですか?」
靈人「栄西と申します。」

神人「臨済宗の方?禅を伝えられた方ですか?」
霊人「はい。私は節することの大切さを説き、少しでもこの国を良くしたい、民を救いたいと思い生きたのです。だが、その教えが広まっていない現状であるならば、とても悔しいです。あなたが言っていることが本当であるならば、私は色々と確かめたいことがございます。」

神人「そうでしたか…。私も現在の世で同じく人の世を少しでも良くしたいと願っている者の一人です。」
靈人「お逢い出来て良かった。では、これで失礼致します。」
神人「また、お逢い致したいと思います。そして、色々とお教え下さい。」



★御紹介★

明菴栄西【プロフィール】
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。臨済宗の開祖、建仁寺の開山。)

永治元年(1141年)吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子として備中国賀陽郡に誕生。
久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。
行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
仁安3年(1168年)南宋に留学。形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平氏の庇護と期待を得る。天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。
文治3年(1187年) 再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受ける。同年、帰国。 九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。
建久5年(1194年) 禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。 同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。 京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
正治2年(1200年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
建仁2年(1202年) 源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
建永元年(1206年)東大寺勧進職に就任。
建暦2年(1212年) 法印に叙任。
建保元年(1213年) 権僧正に栄進。
建保3年(1215年) 享年75(満74歳没)7月5日京都・建仁寺で入滅。

(以上ウィキペディアより抜粋)





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